コレクション

学童疎開日記と大本営発表

戦闘機と戦車のイラストが描かれたノートの表紙の写真
海岸で放牧される牛と座って本を読む少年のイラストが描かれたノートの表紙の写真

学童疎開日記 昭和前期 館蔵

空襲の危険と集団疎開

 太平洋戦争の開戦以降、ミッドウェイ海戦の敗北、ガダルカナル島の撤退と、守勢に立たされつつあった日本政府は、昭和18年(1943)9月に絶対国防圏と称する防衛ラインを設定しました。しかし、昭和19年7月、重要拠点であるサイパン島を喪失し、絶対国防圏は早くも破れてしまいました。

 サイパン島を失ったことは、太平洋に散在する日本軍基地への空襲拠点、日本近海に出没する潜水艦の活動拠点をアメリカ軍に握られたばかりか、日本のほとんどの地域が空襲にさらされることをも意味しました。

 このように空襲が現実味を帯びてくると、児童を空襲から守るため、政府はそれまで親戚や知己を頼って行われていた児童の地方への疎開を、学校単位で集団疎開させることを推進しました。名古屋市でも昭和19年8月5日に出発した第1陣をはじめ、計109校、3万人余の児童が愛知、三重、岐阜県下へ集団で疎開しました。

空襲の危険と集団疎開

 ここで紹介するのは、愛知県丹羽郡岩倉町(現岩倉市)の龍潭寺へ集団疎開した名古屋市八重国民学校(現名城小学校)5年生の1人が疎開先で記した2冊の日記帳です。第1冊は「疎開日記帳(一)」、第2冊は「疎開日記(二)」と題し、1日ごとに月日と曜日、天候、気温を1行に記し、次の行からその日の記事を記しています。疎開地へ向けて出発した昭和19年8月11日から、家庭の事情で縁故疎開するために退寮した翌日の昭和20年3月26日まで、のべ227日間を休みなく記し続けています。教員などの閲読もあったでしょうから児童の本音が残らず示されているとは思われませんが、疎開児童の暮らしぶりや心境を知る貴重な資料といえます。

 日記の内容は多岐にわたります。食べ物の記事が多いのはいつも空腹だったからでしょうか。遠足や行軍、餅搗きなどの出来事。授業では写生と自習が多く、引率した教員の多忙ぶりや困惑がしのばれます。第1陣の集団疎開であっただけに、議員や役人、軍人や在郷軍人、町内会長などの視察、来訪も多かったようです。

 なお、2冊とも巻末の数頁は、時間割りや宿題メモ、漢字の書き取り、軍艦や電気機関車などの鉛筆画、似顔絵、鉛筆の筆跡を用いた海戦遊びなどに当てられており、こちらの方に児童らしさが垣間見られたりもします。そのなかから、戦時下らしい「なぞなぞ」をひとつ。「七生報國の楠公より報國した人があります。それはだれでせう?」(答は「百姓報國の二宮金次郎」)

大本営発表

 戦時下のことですから、戦況に関する記事も散見します。なかでも、昭和19年10月16日以降には、台湾沖航空戦に関する一連の記事があります。当該部分をぬきだしてみましょう。
「又今日の新聞にあった發表によれば台わん方面へ來た機動部隊を攻撃し航空母艦七隻轟撃沈したさうだ。合計二十四隻轟撃沈破の大戰果」「今日もまた大戰果があがってゐた。きのふの戰果と合わして航空母艦十七隻を轟撃沈破艦全部で四十隻餘」「又新聞に臺灣沖航空戰のすばらしい戰果が發表された艦船四十五隻飛行機一千九百機もやっつけた。又そのかげには三百二機といふ尊い犠せい」

 これらは、一部を除き、当時の大本営発表を引き写しています。大本営発表がどのように児童に伝わったのかを示す資料として興味深いものがあります。もちろん、全ての大本営発表が記録されたわけではありません。負け戦が続いていたなかで、国民全体に朗報と受け止められた、まさに驚天動地の大戦果だからこそでしょう。しかし、実際は航空母艦1隻小破、巡洋艦2隻大破という戦果でした。しかも、この誤報は大本営によっては訂正されませんでした。