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正木国民学校疎開関係資料 ・・・一人の教師が書き残した太平洋戦争中の名古屋

 昭和19年(1944)6月のサイパン島陥落により、本土空襲の危険が一気に高まったことで、大都市の学童(現在の小学3~6年生)を周辺農村部に集団移動させる、いわゆる「学童疎開」があわただしく実施されました。8月、名古屋市の中心市街と熱田の軍需工場地帯との間にある正木国民学校も、三重県の一志郡豊地村(現在は松阪市)に疎開しました。以降、昭和21年(1946)3月の解散までの1年8ヶ月間、疎開先の現地責任者であった西尾先生が事務に用いた書類群が本資料です。解散後名古屋に戻っても、空襲で全焼した同校は統合されて一時は学校名すら無くなっていましたので、持ち帰ったが行き場のない疎開関係の書類は、捨てられることなく西尾先生の手元に置かれたままとなりました。そして昭和52年(1977)に名古屋市博物館が開館するにあたり、疎開の記録として寄贈されました。

 その内容はまるで、現地本部の西尾先生の机にあった物をそっくり箱詰めしたままであるかのようです。児童2名の死を記した『学校日誌』(写真1)や『献立表』、名簿類といった記録書類はもちろん、メモ書きのようなものまでが含まれています。中には、どういう経緯なのか、『集団疎開学童納付金領収票』のような本来名古屋の親元にあるべきものまで一枚まぎれ込んでいたりします。しかしそのために、かえって記録や数値などからでは見えにくい現地本部の事務の様子や疎開生活の運営を、より広くうかがい知ることができます。

 中でも生々しい記録として、名古屋の本校からひんぱんに送られてきた事務連絡の通知『本校ヨリノ通知』と、厳しく制限された親らの個別訪問を校長が特に許可した証明書などをまとめた『本校ヨリノ証明書綴』の一群は、教師の苦悩や名古屋の家族の切実な思いが伝わってくる、めずらしい資料です。

 『本校ヨリノ通知』(写真2)は、本校の連絡担当の長坂先生から西尾先生に宛てられたものが大半です。戦局の悪化を知らされず空襲への危機感を共有できないまま我が子を疎開に送り出した親は、学校にさまざまな希望・要求を持ち込みます。教師にとっても集団疎開は初めての経験であり、親の心情と疎開運営の規則との間で板挟みとなった嘆きがしばしばつづられました。また時には、すぐ近くに爆撃があり大変怖い思いをした、というような記述や、通知を書いている途中で警報が鳴り出したために以降の文章が走り書きになってしまった、そんな一通もあります。昭和20年(1945)5月の大空襲でついに学校が全焼した後には、書類も灰となって事務手続きが何もできない、という校長自筆の悲痛な訴えも現地に送られました。疎開本部から名古屋の本校へ送られたはずの返信・連絡はとうに失われましたが、本来、関係教師以外の目に触れることを想定していないこれらのやりとりからは、この残された「片道分」だけからでも、切迫した事態とそれに直面する教師の緊張を十分に知ることができます。

 『本校ヨリノ証明書綴』(写真3)は、面会や勤労奉仕あるいは病気児童の一時連れ帰りのために現地を訪問する人が携行し、現地の本部に提出した証明書群です。学校が統率する集団面会以外の訪問は、出征・冠婚葬祭などの理由に制限されていました。にもかかわらず、子を心配する親からの個別訪問希望はあとを絶たず、学校は終始その対応に追われ続けました。疎開を体験した方々からはしばしば、不許可をくぐり抜けるような理由をこしらえてなんとか面会に向かおうとした親が多かったと聞きます。証明書に見える理由では、商用で近くに行くからついでに冬物を届けたい、とか、伊勢神宮に参拝するので帰りについでに立ち寄りたい(冬物手渡しを兼ねさせることで許可した)、といったものはその一例でしょう。しかし一方、父親が爆死したので連れ戻しに向かいたい、戦死した兄の出迎えをさせたい、といったものも少なくなく、児童に突きつけられた大戦末期の過酷な状況をよく表しています。

  教員個人の手元にあったからこそ残ったであろう内容からは、いわゆる学童疎開が、移動先での不便な集団生活という外見にとどまらず、いやおうなく巻きこまれた教員・学童・その家族一人一人、個人の生きざまの圧縮であることを改めて実感させてくれます。個別の児童に関わる派生的な具体例を数多く見ることができる本資料は、その意味で疎開資料の枠を超えた、戦時下の人々のいとなみと心情を伝える貴重な資料群だと言えるでしょう。

(加藤和俊)

写真はいずれも「正木国民学校疎開関係資料」(西尾玄棟氏寄贈)のうち

  • 学校日誌

    『学校日誌』

  • 本校ヨリノ証明書綴

    『本校ヨリノ通知』

  • 本校ヨリノ証明書綴

    『本校ヨリノ証明書綴』