コレクション

俳諧資料コレクション 芭蕉と蕪村

 俳諧とは俳句や数人で句を詠む連句などの文芸の総称で、江戸時代においては庶民の娯楽の代表であった。

 尾張は俳諧が特に盛んで、優れた俳人を輩出し、豊富な俳諧資料が残されている土地である。中でも代表的な俳人としては、横井也有(1702~1783)・久村暁台(1732~1792)・井上士朗(1742~1812)らが挙げられるが、その共通点は、松尾芭蕉(1644~1694)の影響を少なからず受けていることである。

名古屋ゆかりの芭蕉直筆発句懐紙「いざ出む」

「いざ出む」発句懐紙:貞享4年(1687)

「いざ出む」発句懐紙:貞享4年(1687)

 芭蕉は貞享元年(1684)、『野ざらし紀行』の旅の折に、名古屋に立ち寄り、尾張の俳人たちとはじめて交流した。連句集『冬の日』はその時の連句を収めたものである。後にこの本は蕉風開眼の書と評され、芭蕉の俳諧スタイル―いわゆる蕉風が名古屋で発祥した由縁を伝えるものとなった。以後芭蕉は、旅の折々に名古屋を訪れ、尾張俳人と親しく交流を重ねた。

 発句懐紙「いざ出む雪見にころぶ所まで」は芭蕉の直筆と認められるもので、名古屋との縁の深さも感じさせてくれる懐紙である。芭蕉は貞享4年(1687)の『笈の小文』の旅においても名古屋に立ち寄り、12月の始めには名古屋城下の書林風月堂を訪問。主人の夕道(二代目孫助)が門人ということもあって、懐紙を揮毫したようである。懐紙に書かれた句形は初案で、後に「いざ行む雪見にころぶ所まで」と改案されている。

 この懐紙は芭蕉没後も大切に伝えられた。天保15年(1844)に刊行された『尾張名所図会』前編巻第一には、この懐紙を見た横井也有が「手の跡や雪の足あと見ぬ世まで」の句を寄せたことが書かれており、也有の芭蕉に対する思慕の情を感じさせられるエピソードを伝えている。

蕉風復興に尽くした蕪村・暁台・士朗の交流を語る「与謝蕪村絵入り書状」

与謝蕪村絵入り書状:安永7年(1778)10月11日付

与謝蕪村絵入り書状:安永7年(1778)10月11日付

 芭蕉の死後、一旦は低迷した俳諧文化。しかし、芭蕉没後80年頃より「芭蕉に帰れ」というスローガンのもと、芭蕉の精神の再生を求めて、蕉風復興とよばれる動きが活発化した。京では与謝蕪村(1716~1783)、名古屋では久村暁台・井上士朗らが一門を上げて復興運動に取り組み、彼らは交流を深めていった。

 この書状は、京に蕪村を訪ねた後、名古屋に戻った暁台・士朗に蕪村が宛てたものである。

 彼らが無事に帰ったことを喜びつつ、蕪村がこの頃盛んに描いていた「おくの細道之巻」を、名古屋は「文華之土地」だから「財主(支援者)之風流家」に一本は残したいとの旨が述べられている。

 この「おくの細道之巻」二巻は、無事に暁台の手元に届き、暁台門人の宰馬子(さいばし)らに渡されたことがその後の蕪村宛ての暁台の書状によって知られている。蕪村が描いた「奥の細道図」は、重要文化財になっているものを含め、巻物3組と屏風1双が現存しているが、暁台の書状に見えるものにあたるかどうかは、残念ながら不明である。

 書状の最後の部分にも注目してみよう。蕪村・暁台・士朗らしき一行が「雪楼」(おそらく京の料亭)で戯れる様子が描かれている。芸者であろうか、女性を傍らに愉快に遊ぶ姿や「歯の痛もとんとわすれて」手招きに応じている様子は、思わず見る者の笑いを誘う。特に「尾張名古家(屋)は士朗でもつ」というセリフは、「伊勢音頭」にも歌われている「尾張名古屋は城でもつ」をもじって遊んだもの。こうしたウィットがきいたやり取りからも蕪村が、暁台・士朗らと交友を深めていることが感じられよう。

(星子 桃子)

芭蕉と尾張の俳人の交友について詳しく知りたい方は下記図録をご覧ください。

  • 名古屋市博物館資料図版目録3『尾張の俳諧』(2002)
  • 名古屋市博物館開館35周年記念特別展『芭蕉―広がる世界、深まる心―』(2012)