コレクション

有松・鳴海絞り

有松絞り 月に雁染分秋草文様着物

紺色の着物の写真

月に雁染分秋草文様着物 明治時代 館蔵

 名古屋市南部の緑区には、古くからの絞り産地として知られた有松・鳴海があり、当館では絞り染めに関係する資料を収集対象としてきた。インド、インドネシア、ナイジェリア、カメルーンなどを含む国内外の絞り製品を収蔵しているが、力を入れているのは当然ながら地元有松・鳴海の絞りである。有松で木綿地の絞り染めを作り始めたのは江戸時代のはじめであった。その後は鳴海とともに絞り産地として発展し、有松絞り・鳴海絞りは東海道の名物としてもてはやされた。明治以降、有松・鳴海では絹物も扱うようになり、新しい製法・技法の工夫も相次いで、多彩な絞り技法を持つ大産地に発展した。  「有松絞り」と「鳴海絞り」は区別して呼ばれることもあるが、隣接した地域一帯で絞り生産を行っており、ここでは区別せず「有松・鳴海絞り」と書いていく。

 今回紹介する資料は木綿地に秋草と落雁を大きく描き上げ、藍(あい)一色で染め上げた着物である。文様を表現するために、その都度ふさわしい技法を使い分けており、有松・鳴海らしい製品になっている。  京都は絞りの大産地であるが、技法的にはほとんどが絹地に対する鹿の子絞りである。もちろん刺繍(ししゅう)や友禅染などを組み合わせて、高級和服にふさわしい意匠や染色に工夫が凝らされ、すぐれた製品が生み出されているが、用いられている絞り技法だけでみると鹿の子絞りや帽子絞りなど数種類に限られる。福岡県甘木などにも絵画的に大きく図柄をあしらった製品が多く見られるが、そのほとんどが鹿の子絞りを連続させた線による表現である。各種の技法を使った絵画的表現は、有松・鳴海絞りの特色のひとつといえるだろう。

 当資料に用いられている技法を見ていこう。肩の部分に大きく表された雲形は「三浦絞り」である。これは鉤(かぎ)で小さく引き上げた布に一回だけ糸をかけ、連続してくくっていく。細かなバリエーションがあるが、有松・鳴海にもっとも古くから伝えられた技法であるとされ、伝来地の名をとって、「豊後絞り」と呼ばれることもある。雲形の中を飛ぶ雁は、「折縫い絞り」で描かれる。ふたつに折った布の折り山に近い部分を浅く合わせて縫っていき、破線状に染め残す技法であり、裾近くの線表現も同じである。白い花は「帽子絞り」で表される。これは染め残す部分にビニールなどを巻いて防染する方法であり、かつては竹の子の皮を使ったため、「皮巻き絞り」ともいう。薄(すすき)の葉には「合わせ縫い絞り」という技法が使われている。これは布を二つ折りにしたまま縫い合わせて防染するもので、細長い葉の表現に効果的に用いられている。  さて、こうした有松・鳴海の絞りはどうやって作り出されたのであろうか。くくり、染め、糸とき、湯熨斗(ゆのし)などの絞り生産は絞商を中心とした分業ですすめられた。  そのなかのくくり作業は専業の職人ではなくほとんど農家の女性達の副業であったが、彼女たちが体得しているのは普通一種類の技法のみである。ひとつの製品に多種の技法を施す場合、ひとつの技法のくくり作業が終わると次のくくり手に回され順次別の技法のくくり作業を行うという方法で製作された。

 くくり手は緑区内をはじめ南区、昭和区、豊明市、知多半島、三河地方など広い範囲に所在し、その間を回り布地の配達・回収を担当したのは取次職であった。優秀なくくり手をどれだけ抱えているかが取次職の財産と言われたそうである。有松・鳴海の絞り技法は百種類を超えるといわれ、多彩な表現を可能にした。それを支えてきたのはこうしたくくり手の力であったと言えるのかもしれない。

(田中青樹)
明治 丈139cm 裄60cm

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。

嵐絞り文様浴衣

青く霞がかった浴衣

嵐絞り

斜めの細い線がたくさん交差した模様

嵐絞り(拡大)

 この一見霞がかったような浴衣は、近づいて見ると斜めの細い線が交差してすき間なく表わされている。この斜線、じつは絞り染めで染めたものだ。絞り染めとは布を糸などでくくって染め、模様を表わす技法である。たとえば「鹿の子絞り」や「雪花絞り」など、絞り染めは絞り方を変えれば模様も変わるため、さまざまなものがある。名古屋市には日本でも有数の絞り産地があり、地名から有松・鳴海絞りと呼ばれている。有松・鳴海絞りは江戸時代に始まり、絞り技法は百を超えるといわれ、現在では伝統的工芸品になっている。この浴衣の絞り染めも、有松・鳴海絞りのひとつであり、「嵐絞り」という技法である。

 「嵐絞り」は見た目が絞り染めとは到底思えない模様であるが、その染め方もほかの有松・鳴海絞りの絞り技法とは一風変わっている。有松・鳴海絞りでは、生産工程は分業制で、布を糸などでくくる作業は農家の女性達の副業として行なっている。たとえば三浦絞りという技法を行なう場合、担当する女性は、絞り台という道具を使って、ひとつひとつ布に糸をくくっていく。ある女性からうかがった話では、およそ一週間で一反をくくることができたという。

 一方嵐絞りは、じつにダイナミックに糸をくくっていく。約4mの長さの丸太に布を巻き付けて、1人がハンドルで丸太を回し、もう1人が糸をかけ、途中2人がかりで布を押し縮めるのである。そのため一反を絞るのも一日でできてしまう。また、染色方法もダイナミックで丸太のまま染液に付けて染めるのである。布に糸をかけた状態で押し縮めると糸と糸の間の布が押し上げられ、ひだのようになる。それを染液に付けると表面に出ている部分だけ染められ、模様として表われるのである。嵐絞りという名の由来は、この細い線が嵐の風雨のように見えるからである。

 浴衣の嵐絞りは細い斜線が交差した模様になっているが、丸太の直径を変えて2回染めるとこのような模様になる。この模様を「羽衣(はごろも)」という。嵐絞りは、丸太の太さや布の巻き方、糸のかけ方、押し縮め方でさまざまな模様ができるのである。『有松しぼり』(岡田精三編・昭和47年)には嵐絞りのバリエーションが85種類も記されている。

 嵐絞りは、明治29年(1896)の石碑「鈴木金蔵君紀功之碑」によると、明治12年に有松の鈴木金蔵(1837-1901)によって考案された。
江戸時代尾張藩からの保護により独占的に生産してきた絞り染めが、明治に入ると保護がなくなり、あちこちで行なわれるようになった。その中で絞り生産を守るために、新しい模様を求めてさまざまな絞りが作られたのである。鈴木金蔵は嵐絞り以外にもいくつも新しい絞りを考案し、有松では中興の祖として功績がたたえられている。この嵐絞りは明治の後半にたいへん流行したという。その後昭和40年代には嵐絞りに携わる職人もいなくなり、途絶えたものと考えられていた時期もあるが、現在では、丸太がステンレスに変わるなどし、当時の技法を残しながら、今に好まれる模様も合わせて作り続けている。

 この嵐絞りの浴衣は、絞り染めの幅広い可能性と、新しい時代の模様を求めた絞り生産の執念が感じられる資料といえるだろう。

(佐野尚子)
館蔵(610-3-32) 明治~昭和前期 木綿 丈144.4㎝ 裄50.8㎝

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。