コレクション

よこいしょういちさんのぐあむとうせいかつしりょう
橫井庄一さんのグアム島生活資料

 昭和47年(1972)1月24日、グアム島で旧日本軍兵士橫井庄一氏が発見された。橫井氏は昭和19年(1944)夏のアメリカ軍との戦闘以来、28年間をジャングルで過ごしていた事が判明し、大きな衝撃を与えた。

 橫井氏は大正4年(1915)、愛知県海部郡佐織村(現愛西市)で生まれ、高等小学校卒業後、昭和5年(1930)から豊橋市の花井洋服店に仕立て職人として勤務し、昭和11年(1936)には自宅で洋服仕立業を開業した。昭和13年(1938)5月に最初の召集で日中戦争に従軍した。昭和14年(1939)3月に召集解除となり、帰国して再び自宅で洋服仕立業を営んだ。昭和16年(1941)8月に再度召集を受けて中国大陸で従軍した後、昭和19年(1944)3月にグアム島に上陸、同島の防衛に当たることとなった。同年7月にアメリカ軍がグアム島に上陸、日本軍との激戦となった。しかし、日本軍とアメリカ軍との圧倒的な戦力差は歴然としており、8月にはグアム島はアメリカ軍の支配下に置かれた。

 橫井氏ら日本兵はグアム島のジャングルに隠れ、抵抗を試みた。とはいえ、橫井氏が属したグループも30人、10人、7人と次第に人数も減少し、昭和21年(1946)正月頃には5名、同年夏には3名のグループになっていた。その後、二人の仲間も失い、昭和47年(1972)1月24日にグアム島タロホホで発見されるまでの、最後の8年間は全く一人で、ジャングルの中の壕で過ごしたという。同年2月2日に帰国、東京での入院ののち、4月25日に帰郷した。平成9年(1997)9月没。

 橫井庄一生活資料と名付けた一群の資料は、橫井氏がグアム島で使用した生活道具のうち、グアム政庁から返還を受けて当時の厚生省(現厚生労働省)が管理していたもので、昭和48年6月12日と平成5年7月29日の2度に分けて、橫井氏から名古屋市博物館に寄贈されたものである。

橫井庄一さんのグアム島生活資料

橫井庄一さんのグアム島生活資料

手前から パゴとヤシの繊維で作った背負い袋・パゴの木・半ズボン・草鞋・ヤシの繊維製のロープ・
ヤシの繊維・ココナッツ製の容器・ヤカン・蓋付き鍋・ナイフ・手提げ付き鍋・飯盒・水筒・食器・オイルランプ・筌

 橫井氏のグアム島生活資料は、おおよそ、次の6つのグループに大別することができ、グループごとの特色のなかに橫井氏のグアム島での暮らしを垣間見ることができる。

 第1のグループは日本兵やアメリカ兵が使用したもの、在留日本人や現地の人々の生活用具などで、橫井氏も基本的には本来の使用方法で使用したもの。旧日本陸軍の飯盒(はんごう)や水筒をはじめ、布地などの裁断や整髪に使用したハサミ、スプーン、現地の人のナイフで橫井氏が料理に使用したものなどがある。また、注ぎ口が取れたあとを橫井氏が鋳掛けしたヤカンや、ヤシ油を入れていたというビール瓶の破片、傷口の手当てに使用したという紙片なども含まれる。鋳掛けの技術は沖縄出身の同僚の兵士が鋳掛けするのを見て覚えたという。

 第2のグループは、第1のグループを別の用途に改造したもの。たとえば、飯盒や水筒を改造した鍋や食器、アメリカ軍の食器を叩いて製作した鍋の蓋(ふた)(これは食器にもなった)などがある。海老などの乾燥に使用したアルマイト製の容器、ココナッツ油を燃やして明かりを灯したオイルランプなどのように元の姿が不明のものもある。また、アメリカ軍の機関銃弾や日本軍の小銃の弾などの薬莢(やっきょう)もこのグループに含める。機関銃弾の薬莢は蓋を付けて縫い針や小さな金属片を収納していた。小銃弾の薬莢は縫い針の材料となった。また、火薬は発火に用いたという。

 第3のグループは、グアム島で採れる植物などを加工したもので、本資料群の特色をもっともよく表し、かつ最大のグループでもある。木の燃えかすを水に漬けて作った消し炭は雨期の発火に用いたり、煙が出ないことから昼間の炊事に用いた。食粉を作るためにレモンチンの木を擂り粉木(すりこぎ)として使用したもの。落とし蓋を付けて虫や煙が入らなかったという竹筒、海老などを刺して焼いた竹串、竹で編んだ筌(うけ)と筌の中に入れた魚を取るための餌入れ、乾燥させた食料を貯蔵する籠には竹を編んだものと竹の皮を貼り付けたものなど、加工しやすい竹はさまざまに利用することができた。ヤシの繊維でなったロープは火縄として火の保存に不可欠のものであったし、ヤシの繊維で編んだ草鞋(わらじ)は半年あまりの期間は履くことができた。このグループで圧巻なのは、パゴの木の繊維で作った布地と、布地を裁断、縫製した洋服である。半袖半ズボンの上下と、長袖長ズボンの上下の2セットが現存している。洋服は、防寒のためというよりも、ジャングルの中を歩く時に皮膚を保護するために必要だったという。また、袋部分と口紐がパゴの繊維、肩紐がヤシの繊維という凝った作りの背負い袋もみられる。このグループには、パゴの木そのものや、ヤシの繊維の塊も含まれている。パゴから繊維をとることはグアム島の住民が利用するところを見ていたという。
 第4のグループは、生活用品の製作や改造に必要な道具類である。銃剣や鉄釘を利用した鏨(たがね)、砲弾の破片で製作した鍬(くわ)、砲弾の帯を切りとった真鍮(しんちゅう)板などがある。

橫井庄一さんが使用した道具類

橫井庄一さんが使用した道具類

左手前から 壕を掘る鍬・鉄板などを切る鏨・真鍮製の針・釘を利用した鏨・ハサミ

上 真鍮板(2枚)・現地の刀をつめた庖丁

 このほか、5番目のグループとして小銃と手榴弾(しゅりゅうだん)、6番目のグループとして、帰国後に橫井氏が日本国内の材料で製作したもので、木・竹製の織機、真鍮製の縫い針、割り竹の火おこし器、木・竹製の食料乾燥器がある。

 第1~4のグループは、いずれも、橫井氏の類い稀な観察眼や辛抱強い性格、不断の努力の積み重ねによるものであり、橫井氏の帰還が、決して偶然のみによるものではなく、橫井氏自らが掴みとった帰還であったことを示すものである。

(竹内弘明)

※本資料の一部を常設展テーマ14「戦争と市民」に展示しております。