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陸軍名古屋特別大演習(りくぐんなごやとくべつだいえんしゅう)

  • 平成30年6月27日(水)~8月26日(日)

 大正2年(1913)秋、名古屋とその周辺の広大な範囲で、陸軍による特別大演習がおこなわれました。これは年に一度、それぞれ複数の師団によって編成された2つの軍団(数万人規模)が、演習計画に基づいて戦闘をおこなう極めて大規模なもので、この年は愛知県が宛てられました。天皇が一週間滞在して「大元帥」として統監(総合監修)をおこない、高位高官も大勢滞在するため、県下は挙げて準備に追われました。しかし受け入れ側にとっても、特産品(工業・農業)の天覧・御買上げを始めとして、愛知・名古屋の地域と産業について詳しく知ってもらい、全国に宣伝してもらえる、滅多にない発信のチャンス、一大イベントでもあったのです。

1 受け入れ準備(3月ごろ~11月上旬)

 天皇行幸と特別大演習の大人数を迎え入れるにあたり、愛知県と名古屋市・各郡は、宮内省と軍の指示のもと、一体となって受入れ準備に奔走しました。天皇と大勢の来賓が長期滞在するため、特別大演習は単なる軍事演習にはとどまらず、県下の官民挙げての接待が必要でした。演習に参加する将兵約4万5千人と軍馬約6千頭の食料他の供給準備のための全県調査から始まり、施設や道路の修繕、地元特産品の天覧、侍従による工場視察、将兵の民家宿泊のほか、御宴会、演習終了後の来賓の県内観光なども含め、その作業は膨大でした。

2 天皇の行幸 (11月12日)

 行幸当日、名古屋駅から宿所である名古屋離宮(名古屋城)に向かう天皇の行列を見るために、約10万人の人々が道筋に集まりました。演習期間中を含め、還幸(天皇が東京に向け出発)までの間に、県下でのべ55万人が、新帝である大正天皇の姿に接しました。

3 特別大演習と観兵式(11月13日~17日)

 大正天皇が「大元帥(日本軍の総帥)」陛下の立場で直接臨場したこの大演習では、名古屋第3師団・豊橋第15師団が東軍(2万人余)として、また金沢第9師団・京都第16師団が西軍(2万人余)として宛てられました。演習作戦の骨格は、東海道を三河から名古屋に向かって進軍する東軍の大目標を尾張平野の占領とし、西軍の大目標は木曽川周辺から東に進んでこれを撃退することでした。さらに、現実に行動する師団以外にも、作戦上の「仮想」師団として、静岡や中山道方面でも東西両軍それぞれに別軍が設定され、その優劣の動向が名古屋周辺での現実の作戦行動にも影響するように企画された壮大なものでした。

4 拝謁と御宴会 (11月17日)

 作戦演習の後の観兵式をもって一連の特別大演習は終了し、大正天皇は「大元帥」陛下としての役目を終えます。その後は、「天皇」陛下として拝謁を受け、大演習関係者をねぎらう御宴会を主催するなどしました。

5 天皇の還幸 (11月18日)

 前年の即位早々、春先に肺病によって危篤にまで陥った新天皇が、行幸先での長期にわたる過密スケジュールをほぼ予定どおりこなし、無事名古屋を後にしました。受け入れた関係者たちはさぞ胸をなでおろしたことでしょう。

6 民衆にとっての特別大演習

  誰も見たことがなかった天皇が、民衆の前を何度も、幌を開けた馬車や騎馬というむき出しの姿で通過しました。接した人々はこれを一生に一度の貴重な経験としてとらえました。また若き新天皇に日露戦争の「英雄」が付き従う姿は、明治「大帝」亡き後も国は変わらず安泰であることを印象付けるのに役立ったことでしょう。

 また、行動中の何千人もの大部隊、轟音と共に躍動する大軍は、徴兵された経験者でもなかなか体験できなかった、珍しい光景です。民衆の生活空間でこうした「模擬戦争」を実施するということは、軍隊の生の姿を膨大な数の民衆に向けて見せつけることでもありました。これが特別大演習の、演習自体以外のもう一つの大きな目的、軍の活動・存在のアピールでした。

 県は大演習終了後、小学児童が大演習から受けた影響について、名古屋市と各郡に特に報告を求めています。演習地からの報告には、一様に、初めて見る生の軍隊の姿に対する感動と「尚武心(武を尊ぶ心)」が喚起された、と挙げられています。また、銃砲やこの年初めて演習に参加した飛行機などの機械が、児童の軍隊装備への興味関心を大いにかき立てた、とも報告されるなど、特別大演習が子どもたちの心に大きな影響を残したことが知られます。

菊の紋章が入った赤い旗と軍服姿の男性の肖像写真がレイアウトされた絵葉書

大元帥陛下としての大正天皇(旗は大元帥旗)
陸軍特別大演習記念絵葉書(館蔵)より

書類や赤い腕章が並んでいる写真

東西両軍戦況概要・陪観者用腕章など
富田重助家資料(館蔵)より