展示

常設展フリールーム

幕末の尾張名古屋

 当館では令和3年(2021)、幕末の名古屋周辺の様子を豊富な挿絵を交えて描いた『尾陽熊手図絵(びようくまでずえ)』という資料を新たに収集しました。この資料には西洋銃の導入、異国人の来訪、和宮(かずのみや)下向といったこの時代を象徴するできごとを通して、幕末の尾張名古屋の様子が生き生きと描かれています。この展示では、初公開となる『尾陽熊手図絵』はじめ館蔵資料によって、幕末の尾張藩の動向や激動の時代を生きた人々の姿を紹介します。

幕末の尾張藩主‐慶勝と茂徳

 幕末の尾張藩を主導したのは、分家の高須松平家(たかすまつだいらけ)に生まれた兄弟、徳川慶勝(とくがわよしかつ)と茂徳(もちなが)でした。兄・慶勝は嘉永2年(1849)に藩主となりましたが、諸外国との通商条約締結を批判して大老・井伊直弼(いいなおすけ)と対立し、安政5年(1858)に隠居謹慎を命じられました。弟の茂徳がその跡を継ぎましたが、万延元年(1860)に井伊が暗殺されると、隠居の慶勝が復権して茂徳と対立しました。

徳川慶喜から尾張藩隠居の徳川慶勝にあてた手紙

徳川慶喜書状 徳川慶勝宛 文久3年(1863)3月20日付  館蔵

西洋式銃砲の導入

 幕末の日本では欧米列強に対抗するため、西洋式銃砲の導入が急速に進みました。尾張でも洋学者を中心に西洋式の軍制や銃砲に関する研究が行われ、ペリー来航後には西洋銃の調練や銃砲の製造もおこなわれました。とはいえ新たな技術の導入は簡単ではなく、西洋式銃砲の製造には寺院の鐘などを鋳造(ちゅうぞう)する「鋳物師(いもじ)」の技術が転用されるなど、さまざまな工夫が試みられました。

西洋銃の発砲訓練をする様子を描いた図

初公開 尾陽熊手図絵 第二冊 館蔵

文久2年(1862)頃、名古屋城下の御下屋敷における西洋銃調練の様子。

和宮下向と尾張藩

 井伊直弼が暗殺されると、幕府は朝廷との関係を深めて対外的な危機に対処するため、孝明天皇(こうめいてんのう)の妹・和宮と14代将軍・家茂(いえもち)との縁組を進めました。こうして文久元年(1861)、和宮は中山道(なかせんどう)を通って江戸へと向かいました。中山道の通る木曽山を支配する尾張藩は、藩を挙げて和宮下向の準備にとりかかりました。その様子は『尾陽熊手図絵』に詳しく描かれています。

和宮下向に必要な物品を集める様子を描いた挿絵

初公開 尾陽熊手図絵 第一冊 館蔵

和宮下向に備えて必要な物品を名古屋城下町の一角に集める。

和宮下向のために動員された人々でごった返す宿場町を描いた挿絵

初公開 尾陽熊手図絵 第三冊 館蔵

和宮下向に備えて尾張藩領の村々から動員された人足でごった返す中山道。

長州征討と尾張藩

 文久3年(1863)頃の京都では、条約破棄と即時攘夷(じょうい)を主張する長州藩(ちょうしゅうはん)が、朝廷に大きな影響をおよぼしました。ところが同年8月、過激な攘夷論を危ぶんだ孝明天皇の意を受けて、薩摩藩(さつまはん)や会津藩(あいづはん)などが長州を追放しました。挽回を狙う長州は翌年7月、御所(ごしょ)を守る薩摩や会津の兵を攻撃し、敗れました。長州追討(ついとう)を企てた幕府は、その総督に尾張藩の隠居・徳川慶勝を任命し、慶勝は多くの尾張藩士を従えて出陣しました。