コレクション

大曲輪遺跡出土資料拓本帖

資料の紹介

 名古屋市博物館は多くの考古資料を所蔵しており、そこから遺跡や当時の人々の生活を知ることができますが、そういった「考古学的な情報」を我々に教えてくれるのは、実は土器や石器などの考古資料そのものだけではありません。写真や拓本、当時の調査員のメモといった発掘調査や出土資料の記録も考古学的な情報を得るための貴重な資料です。

 今回は記録資料の一例として、「大曲輪(おおぐるわ)遺跡出土資料拓本帖」を紹介します。

大曲輪遺跡とその調査

 この資料は名古屋市瑞穂区の瑞穂公園内にある大曲輪遺跡出土品(主には縄文土器の破片)を、小栗鉄次郎が拓本と断面図メモ書きなどによって記録したものです。

 大曲輪遺跡は縄文時代の集落遺跡で、昭和14年(1939年)の瑞穂陸上競技場建設時に初めて発見、調査されており。昭和16年(1941年)に報告書(注1)が刊行されています。拓本帖を作成した小栗鉄次郎がこの発見時の調査の中心人物であり、また日付のあるものはいずれも「昭和14年」もしくは「昭和15年」とあることから(注2)、発見時の一連の調査の際に出土した資料の記録であると思われます。

調査記録資料はなぜ重要か?

 一見すると、土器片などの考古資料そのものと、データが整理され刊行された報告書があれば、この資料のような調査記録はなくても良いようにも思えます。にもかかわらず、このような調査記録に関係する資料はなぜ「情報を得るための貴重な資料」なのでしょうか?ここでは、2つの重要性を挙げておきます。

 第一に、このような記録資料の情報は、考古資料そのものや報告書からは得ることのできない情報を補完してくれます。例えば、「大曲輪遺跡出土資料拓本帖」であれば、日付や収集者の氏名などが記載されており、これらは報告書等からではわからない情報です。特に大曲輪遺跡の発見時調査は昭和14年(1939年)とかなり古いため、現在の発掘調査報告書ほど細かい情報までは掲載されておらず、また報告書で紹介されている資料も実際の出土資料の中のごく一部に過ぎませんでした。そのため、記録の対象となっている資料を研究しようとする時には、拓本帖の記録が非常に重要となってくるのです。

 第二に、拓本などの記録は失われた資料の情報を得るための唯一の手掛かりになる場合もあります。先に書いたとおり大曲輪遺跡の発掘調査はかなり古い時期のものであり、また当時は出土した資料も現在ほど厳密に管理保管された訳ではなかったため、その後戦火や時間経過によって当時の出土資料の多くが行方不明となっています。実際、拓本帖に掲載されている資料と今現在博物館で保管されている資料を比較しても、拓本に載っている資料のうち多くのものについて実物が見つからず、博物館の所蔵となる前のどこかの段階で散逸してしまったものと思われます。資料そのものが行方不明になっている以上、遺跡を研究する際には拓本に掲載の情報が貴重な手掛かりとなるのです。

 このように、発掘調査の記録資料は遺跡から出土した考古資料そのものとは性質が違いますが、遺跡や遺物のことを知るためにはたいへん重要で興味深い資料です。さらに言えば、これらの資料は遺跡や遺物の考古学的情報の情報源であるだけでなく、当時の発掘調査がどのように行われているかという情報源でもあり、昭和時代の歴史(特に考古学史や文化財保護の歴史)を知るための歴史資料でもあります。

 博物館でこのような資料を展示しているところはあまり多くはありませんが、もし見かけた時には注意して観察してみてください。

(冨田航生)

(注1)

小栗鉄次郎1941「名古屋市昭和区大曲輪貝塚及同下内田貝塚」『愛知県史跡名勝天然紀念物調査報告』第19,愛知県

(注2)

拓本帖に貼り付けられている拓本は日付の記載のないものも多いが、昭和14年(1939年)6月〜8月ごろのものが多く、また「発掘」という記載があるものも多いことから、昭和14年中に行われた発掘調査での出土遺物が中心だと思われる。

一方で、独立して保管されていた拓本(写真下)は翌年の昭和15年の記載があるものが多い。報告書内では昭和15年3月18日の最後の公式な調査の記事に続いて、「其の以後陸上競技場の工事其他に於ける出土遺物に就ては、同工事場に働く樋口敬治氏の綿密な注意によつて」多数の遺物が検出されたとあり、拓本帖記載の日付や収集者(多くが「樋口氏」とある)から見ると、この記述に該当する資料の拓本がまとめられたものであろう。

〈紹介資料〉

501-121-27大曲輪貝塚出土資料拓本帖

501-121-40大曲輪貝塚出土資料拓本

※この資料は常設展示されておりません、あしからずご了承ください。

土器の拓本が貼り付けられたスクラップブック

大曲輪遺跡出土資料拓本帖