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徳川慶勝宛徳川慶喜書状

 本資料は、徳川慶喜が文久3年(1863)3月20日付で徳川慶勝宛に書いた書状で、尾張徳川家に仕えていた箕形家に伝来し、掛軸に仕立てられたものである。

 慶喜(文久3年当時は将軍後見職・一橋家当主)は水戸藩9代藩主・徳川斉昭(なりあき)の7男、慶勝(当時は前尾張藩主)は斉昭の姉・規姫(のりひめ)の子で斉昭の甥にあたり、両者は従兄弟であった。

和紙に筆で書かれた書状の画像

徳川慶勝宛徳川慶喜書状

 書状を要約すると、慶勝から慶喜へ送られた書状の返信であり、14代将軍徳川家茂が「御参内」したことを、慶喜が慶勝の「御周旋」によるものだとして「深く大慶」したというものである。また、尾張藩付家老成瀬正肥(まさみつ)にも自分が喜んでいることをよろしく伝えてほしいとし、後のことも頼むと慶勝に依頼している。

 では、なぜ慶喜は将軍が「御参内」したことを、慶勝の「御周旋」によるものだとして「深く大慶」したのだろうか?

 この書状が書かれた当時、生麦事件の賠償要求のためイギリス艦隊が横浜に入港していた。その一方で、公武合体の実現を目的に将軍家茂が上洛し、3月4日から京都に滞在していた。

 将軍上洛に際し、①将軍は短期に滞京したのちに江戸に帰府してイギリス艦隊に対応すべきという意見と、②将軍が長期滞京するかわりとして名代(将軍総裁職松平春嶽か慶喜のいずれか)を江戸に派遣すべき、という2つの意見があった。これらの意見について、幕府は①の方針であったが、これに対して慶勝は②の方針をとり、家茂の滞京に尽力していたことが明らかにされている。なお、この書状を作成した慶喜は当初①の方針であったが、のちに②の方針に転換して慶勝と同じ立場をとっている。

 当初、将軍滞京日数は10日という短期間に設定されていた。しかし、3月10日になると、慶勝は朝廷に対して将軍は長期滞京すべきと考える旨の上書を提出した。さらに、書状には「仰ニより御参内被為在」と記されていることから、慶勝が家茂に対して「御参内」することを勧めていたことがうかがえる。以上のことをふまえると、書状でいうところの慶勝の「御周旋」とは、3月10日の上書提出及び「御参内」を勧めたことなどであると考えられる。

 家茂は、3月19日まで「御滞京御請いまた無之」(『伊達宗城在京日記』文久3年3月19日条)という状況であったが、同日に「御参内」すると、孝明天皇から滞京してくれなくては心細いとの言葉を聞いて感銘し、帰府を撤回した。こうしてこの日に家茂の長期滞京が決定的となった。

 書状が書かれたのは、家茂が参内して帰府を撤回した翌日である。当時の政治状況をふまえると、書状において慶喜が将軍の「御参内」に「深く大慶」しているのは、慶勝の「御周旋」によって家茂の「御参内」ひいては長期滞京が決定的となったためとおもわれ、書状は慶勝の将軍滞京をめぐる活動の影響力を裏付けるものとなっている。

(伊藤乃玄)

本資料(書状)の翻刻

 朶雲拝誦、春暖之

 候ニ候得共、益御安静

 奉寿候、然者仰ニより御

 参内被為在、至極之

 御都合御同意恐悦

 奉存候、右様之御都

 合候も畢竟厚く

 御周旋有之候故之

 事と深く大慶仕候、

 御序之刻成瀬へも

 宜敷御伝声奉頼候、

 猶此後之処、幾重ニも

 宜敷奉願候、頓首


  三月廿日

 再白御報今朝可差出之

 処、登 城前彼是

 取込居及延引候、

 不悪御汲取可成候、不尽


尾張前大納言様 一橋中納言

     貴酬

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。

参考文献

 家近良樹『徳川慶喜』(吉川弘文館、2014年)

 久住真也『幕末の将軍』(講談社選書メチエ、2009年)

 羽賀祥二「文久期の尾張藩」(羽賀祥二・名古屋市蓬左文庫編『名古屋と明治維新』風媒社、2018年)

 藤田英昭「徳川慶勝の上京と京都体験―文久三年上半期を中心に―」(竹内誠・徳川義祟編『金鯱叢書』第42輯、2015年)

 藤田英昭「文久・元治期における徳川慶勝の動向と政治的立場―文久三年・元治元年の上京を中心に―」(竹内誠・徳川義祟編『金鯱叢書』第46輯、2019年)

 『孝明天皇紀』第4(平安神宮、1968年)

 日本史籍協会編『伊達宗城在京日記』(東京大学出版会、1972年復刻)