コレクション

第三区内飯田町絵図・第三区内杉出町絵図・・・明治初年の住宅地図

 町内各戸の区画ごとに居住者名と各戸の番号を記した現代の住宅地図に通じる内容の絵図である。どちらの図にも「第三区」とあることから明治4年(1871)8月に行われた廃藩置県の直後、戸籍編成のために定められた戸籍区時代の絵図であることが判明する。(第三区という呼称はこの時期にしか存在しない。)

 第三区の戸長が作成した戸籍編成にかかった経費の記録「明治四年未八月ヨリ申七月迄 戸籍入費記録」(『新修名古屋市史 資料編近代Ⅰ』)には、「区内絵図面紙代」「区内絵図面認料」の記載があり、第三区内の全町について同様の絵図が作成されたものと考えられる。明治4年8月21日に宮町(現在中区錦)の町代の御用留の記述には、「戸籍御改」のため「市中一区ヨリ十区迄凡戸数六万軒番号の木札今日ヨリ打始」とある。各戸の番号はこの木札に記された番号であったのであろう。

 戸籍区は、翌5年9月には、大区小区制に移行したため、存在したのは一年余の期間である。この時期は、廃藩置県が断行されたとはいえ、実態は江戸時代の町方と大きく変わっていなかったようだ。すでに、武士に限らず公的にも苗字を名乗ることが許され、戸籍法でも苗字の記載が決まっていたが、この図には、江戸後期の人別帳と同じく、大工佐兵衛や材木屋治兵衛、織屋鉄三郎など、名前とともに職種や屋号が記載されている。

 また、同じ第三区に属した志水町についても、同様の絵図が存在するが、作成にあたっては、天保5年(1835)の家並帳を参考にしている。(徳川林政史研究所蔵)1年足らずの戸籍区時代に作成された絵図は、江戸時代の状況を濃厚に伝えているといえるのである。

 江戸時代の名古屋の町について現在の住宅地図に通じるような内容を求めるならば、家の間口と奥行きを記した土地台帳「家並帳」から区画を再構成することとなる。熱田の旗屋町や白鳥町については、「家並帳」をもとにした一九世紀前半の「家並絵図」が存在する。名古屋城下では、ほとんど確認されていなかったが近年享和3年(1804)笹屋町の家並絵図が確認されている(『愛知県史資料編 名古屋・熱田』)。ただし、「家並絵図」は「家並帳」を絵図化したものである。戸籍区が作成した絵図が1戸ごとの戸籍作成のため各区画に居住する各家の世帯主を記載しているのに対し、記載されているのはあくまで土地、建物の所有者「家主」であり、居住者ではない。このためその町の住人ではない人物の名前が記されることも当然数多くあったのである。

 さらに、戸籍区の絵図と江戸時代の絵図の違いは、武士、町人の区別なく、戸籍区内の各戸についてすべて記されている点である。江戸時代の町方では、武士でも浪人については、町の人別帳に記載され、規制なども他の住民同様であったが、藩士や陪臣など主家をもつ武士については、町の人別帳には記載されないし、規制も法令も主家のものに従った。明治初年の状況はもちろん、江戸時代の名古屋の町を考える上でも戸籍区が作成した絵図は、重要な意味を持っているといえよう。

 「第三区内飯田町絵図」には、江戸時代の飯田町と作子町の町方、さらに作子町と南北に境を接した武家屋敷の部分が描かれている。(現在東区泉、橦木町付近)各戸ごとの区画が明示され、世帯主の名前と各戸の番号のほか、間口の記載がある。一方「第三区内杉出町絵図」は、享保13年(1719)「町続」として治安管理上町方の支配下に置かれた杉村から杉出町になった地域(現在の北区清水付近)である。こちらには、世帯主の名前と各戸の番号のほか、間口だけでなく、区画の奥行き、坪数が記載され、「家並帳」の記載や「家並絵図」の形式を踏襲しているようだ。

 江戸時代の名古屋城下の町の様子や町人の暮らしを伝える資料には様々なものがあるが、各町々の住人がどのような職業の人々であったのか。家族は何人くらいであったのか等々、具体的な様子となるとよくわからない事の方が多い。町の公文書として各町が管理し、受け継がれた住民の戸籍や土地台帳などにあたる町方文書が、残されていれば、判明することも多いのだが、残念ながら名古屋の町方文書で、今日まで伝えられている例は極めて少ないのである。

 こうした中で飯田町は、おぼろげながらも江戸時代の町の姿を描くことができる稀な例のひとつである。飯田町は、城下の東部にあって、南側を九十軒町に、北側を種木町筋南側の武家屋敷に境を接する町人の居住区域である。飯田町の町方文書は、早くに古書市場に出たらしく、徳川黎明会が、昭和前期から戦後にかけて収集した資料(現在の林政史研究所と名古屋市蓬左文庫に分蔵される)の中に、「人別改」や「入用町」「願達留」などが含まれている。

 当館が所蔵する飯田町の町方文書は、青松葉事件や城下の町割りの研究で知られる郷土史家故水谷盛光氏が収集した49通の「宗門送状」とここで紹介する「第三区内杉出町絵図」とともに古書店から購入したこの戸籍区時代の絵図である。いずれも最初は徳川黎明会収集資料と同じ時期に古書市場にでたものであろう。

 嘉永3年(1850)2月の「飯田町人別御改帳」(徳川林政史研究所蔵)には、各戸の職業と家族構成が記入されている(『新修名古屋市史第4巻』)。記録された73世帯の内53世帯は借家人で、職業は、大工19世帯を筆頭に38世帯が職人である。商人は、2軒の材木商のほかは、米、味噌、菓子、薪炭などの小売商店である。材木商、大工はじめ建築業関係が29世帯におよぶ。ほとんどが夫婦と子供という家族構成である。中小の商人、職人が住む町といった印象である。

 一方、戸籍区時代の絵図には、大工など職人の名前が数多く記載され、嘉永三年の人別帳の内容が裏付けられる。さらに江戸時代の町の資料では確認できない苗字を記載した武士身分とおぼしき世帯が9軒あり、内2軒は、幕末の藩士名簿から尾張藩士であることが判明する。

 戸籍区時代に作成された同様の絵図は、飯田町と杉出町、前述の「志水町」が確認されている。いずれも第三区に属した町である。前述の第三区が作成した戸籍編成にかかった経費の記録によれば、第三区内は全町作成されたと考えられる。第五区に属した「広小路片町」についても明治五年制作のよく似た内容の絵図(個人蔵)があるので、全区で作成された可能性もある。さらに多くの町について、戸籍区時代の絵図が確認されることを期待したい。

(桐原千文)

道路沿いの住宅を記した細長い地図

「第三区内飯田町絵図」1巻 
明治4から5年
32.5×191㎝

道路沿いの住宅を記した細長い地図

「第三区内杉出町絵図」1巻
明治4から5年
33.0×192.3㎝