コレクション

有松絞店の宣伝チラシ …江戸の広重、名古屋の春江。

 令和元年(2019)5月20日、有松地区(名古屋市緑区)が「日本遺産」に認定されたが、その魅力としてあげられたのが「浮世絵さながらの」町並みであった。そこでこの機に(東海道作品のなかの一枚ではなく)、絞店の宣伝という目的をもって描かれた浮世絵を紹介しておきたい。
 いずれも出版検閲印や版元印が無いことから、一般販売品ではなく店が独自に発注した摺物(すりもの)、つまり宣伝チラシとみられる。似通った雰囲気を持つが、大きさや枠などの体裁が異なるため、同一シリーズではなく別々に注文されたものだろう。

歌川広重(うたがわひろしげ)の作例

 「有松絞 竹谷佐兵衛店先」(図1)は、幕末を代表する浮世絵師歌川広重(初代)が描いた錦絵(にしきえ)(多色摺木版画)で賛も広重による。いわゆる大倍版(おおばいばん)という大きめのサイズである。落款の書体や人物の描き方により、弘化・嘉永年間(1844年から1854年)頃の制作と思われ、画中に「彫竹」(江戸の彫師、横川竹二郎)とあることから、江戸で版木が制作されたことが分かる。なお、当館では所蔵していないが、広重には他に「尾州有松絞店之図 河村弥平店先」がある。

絞店の絵。店先には丸に十字の紋が染められた暖簾がかかる。

図1 歌川広重「有松絞 竹谷佐兵衛店先」35.0×46.5㎝ 館蔵

小田切春江(おだぎりしゅんこう)の作例

 図2、3、4は、名古屋の小田切春江が描いた錦絵で、やはり賛も全て自身で記す。図2は大判、図3と図4は大倍版。なお図2は画中に「彫工 豊原堂刀」とあり、名古屋で制作されたことが分かる。
 いつごろ作られたものなのか。これが一筋縄ではいかない。なぜなら図2には、駕籠や振り分け荷物の一行を、洋傘を差した男や人力車に変貌させた異版(いはん)が存在するのだ。また図3では、代替わりしたためだろうか、のれんに染められた「山形屋庄五郎」に朱色の訂正(不読)が入るほか、新たに「浪花講」の看板がやはり朱で追加されている。つまり、時代の変化に合わせて版木の一部分を彫り直して修正しているのである。当然、他の図にも同様の可能性があるため、制作年代の同定には慎重を期さなければならない。しかし、こうした異版が存在するおかげで、これらの商品寿命が思いのほか長かったことが分かる。

 現段階ではいずれも幕末、とりわけ図4については文久・慶応年間(1861年から1868年)とみておきたい。

絞店の絵。店先には枡の紋が染められた暖簾がかかる。

図2 小田切春江「有松絞 舛屋喜三郎店先」24.0×35.2㎝ 館蔵(中村新三コレクション)

絞店の絵。店先には丸に山の字の紋が染められた暖簾がかかる。

図3 小田切春江「有松絞 山形屋庄五郎店先」36.8×49.8㎝ 館蔵

絞店の絵。店先には丸に丈の字の紋が染められた暖簾がかかる。

図4 小田切春江「有松絞 丸屋丈助店先」36.7×48.9㎝ 館蔵

広重と春江

 はたして江戸の絵師である広重が、実際に竹谷佐兵衛の店を見て描いたのだろうか。
天保8年(1837) 、広重は宮宿から矢矧橋を渡って、つまり東海道ルートをたどって江戸に戻る旅をしている。ならば有松も通っていると考えるのが順当だろう。しかし、だからといって、これが広重の写生に基づいた浮世絵だと断定するのはためらわれる。いくら広重とて、一軒ずつ足をとめて、つぶさに観察したわけではあるまい。

 ではどうやって描いたのか。実は広重には、地方発注の錦絵が他にもある。それらの制作状況をみると、どうやら現地の絵師から送られてきた草稿を元にして描いているようだ。恐らく、ここにあげた絞店のチラシも同様だったのではないか。

絞店の絵。店先には丸に竹の字の紋が染められた暖簾がかかる。

図5 小田切春江「有松絞店」『尾張名所図会』前編六巻 館蔵

 この場合、草稿を手掛けたのは、『尾張名所図会』で竹田庄九郎家を描いた経歴を持つ春江その人だった可能性が高い。そう考えれば広重作と春江作で、店舗をやや上から俯瞰しながら雲をたなびかせる構図が似通うのも納得がいく。

          

 商品の主たる顧客が、東海道を往還する旅人たちであったことを思えば、すでに大ヒットシリーズ「東海道五拾三次之内」で、名所絵の第一人者として全国に名前をとどろかせていた広重にチラシを描いてもらうことで、宣伝効果はいや増したに違いない。
 他方で春江に依頼が入ったのは、発注側(絞店)がコストパフォーマンスを考えたのだろうが、なによりも『尾張名所図会』挿絵に代表されるように名古屋の名所絵師として、彼の実績がかわれていたためだといえよう。

(津田卓子)

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。