コレクション

伊勢湾台風資料

 昭和34年(1959)9月26日、午後6時過ぎに和歌山県潮岬の西およそ15㎞に上陸した台風15号は、暴風による吹き寄せと低気圧による吸い上げで伊勢湾に記録的な高潮を生じさせ、各地で破堤と激しい浸水を引き起こした。5,098名の尊い命が犠牲となったこの台風は、気象庁によって「伊勢湾台風」と名付けられ、それ以来地域住民やマスコミによって大災害の記憶を伝える営みが今日に至るまで続けられてきている。

 この文章を書いている平成31年(2019)は、伊勢湾台風からちょうど60年の節目である。2011年の東日本大震災以降、災害への社会的関心が高まる中、東海地方では伊勢湾台風が以前にも増して注目されるようになった。しかしその一方で、60年の間に被災者たちの高齢化は進み、彼/彼女らの記憶を頼りに災害の経験を伝えていくことは難しくなりつつある。

 そこで重要になるのが、伊勢湾台風の一次資料(いわゆる「生」の資料)である。伊勢湾台風という出来事に関わる人々の営為から直接生まれた資料を収集・保管することで、伊勢湾台風について確かな情報を伝え続けていくことが可能となる。名古屋市博物館では近年、このような伊勢湾台風資料の収集と調査研究を進めている。ここではその一端を紹介しよう。

台風記

作文の綴りが並べられた写真

台風記 館蔵(名古屋市立白水小学校寄贈)

 平成26年(2015)2月、名古屋市立白水小学校から、伊勢湾台風当時に児童・教職員が自らの体験や思いを書き綴った作文50綴を受贈した。以前から災害教育や報道で使用されていたものだが、資料の保存や活用の観点から博物館へ寄贈されたものである。

作文は、二つ折りにした原稿用紙の束に白い厚紙の表紙を付け、黒い紐で綴じてある。合計で1669名1719点の作文が収録されており、その内訳は次の通りである。

  1. 表紙に「台風記」という題字と、クラス名・担任名が書かれたもの
    45綴、1474名1491点の作文を収録。
  2. 表紙に「伊勢湾台風誌」と書かれたもの
    3綴、83名(うち教員39名)92点の作文を収録。
  3. 表紙に「伊勢湾台風記録」と書かれたもの
    2綴、112名136点の作文を収録。

昭和34年11月15日に、名古屋市教育委員会から各校へ伊勢湾台風の記録誌制作のため原稿募集の通知が出されており、(1)はそれに応じてクラス毎に取りまとめられた原稿である。市教委の制作した記録誌は、台風からちょうど1年の昭和35年9月26日付けで、『伊勢湾台風―こどもと教師の記録―』として発行された。

 市教委の企画を受け、白水小学校でも独自の伊勢湾台風記録誌の制作が企画された。伊勢湾台風当時、同校では学区が名古屋港8号地の貯木場から流出したラワン材の直撃を受け、本校と柴田分校(現在の名古屋市立柴田小学校)で合わせて142人の児童が亡くなった。凄絶な体験を余儀なくされた同校では、「これを一本に綴って「伊勢湾台風誌」と名付け永く後の世の語り種とも、亡き数に入った痛ましい犠牲者の追憶、追悼の糧ともし、暖い救援の手をさしのべられた方々への忘れ得ぬ感謝の微意をあらわす資ともすべく全校を挙げての事業として」学校文集の制作を企図したのである。この『伊勢湾台風誌』は年が明けて昭和35年の2月15日に編集を終え、3月20日付で発行された。(2)は、この『伊勢湾台風誌』編集のために作られた綴りで、(1)から抜き出した原稿も含まれている。

 また、(3)は中部日本新聞社が発行した『あらしの子ら―伊勢湾台風被災児童の記録―』に掲載された作文を含むため、この文集に掲載する候補を抜き出してまとめたものと考えられる。

この50綴の生原稿は、伊勢湾台風資料としてどのような重要性を有しているのだろうか。このことを考える上で示唆的な作文を読んでみよう。

五学年七組 吉田行雄
九月二十六日の台風のある時ちょうどそろばんの試験の日だったのでそろばんやにいったら先生が「今日は試験はとりやめにします。」といったので帰ろうとして外に出たら、風がふきやがて雨がふってきた
  「台風記」(館蔵)より
白水小・四年 若尾晴敏
九月二十六日は、いつもと同じように学校を出て友達といっしょに家に帰った。この日はそろばんのしけん日だった。もう四時ごろは風がふいていたので、そろばん学校へゆかなかった。
  『あらしの中の子ら』(中部日本新聞社)p.7

 伊勢湾台風の襲来した9月26日は、土曜日であった。当時の土曜日は「半ドン」で、一般的に午前中は仕事や学校があり、午後だけが休みであった。帰宅後に習い事へ通う子どもも多く、この日白水小では台風に備えて授業を3限で切り上げ、早めに下校させたのだが、その後の対応は各家庭の判断に委ねられていた。試験日だからといってそろばん塾へ行く子もいれば、風が吹いてきたからと休む子もいた。土曜日の昼過ぎまでは、町は嵐の前の静けさに包まれていたのであり、巨大台風が迫っていることは知っていても、この日の夜に大災害が発生することはまだ誰も知らなかった。

 すでに刊行されている文集の多くは、被災地の各校から数点ずつ作文を収録しており、全体のバランスが取れている一方で、密度は薄いと言わざるを得ない。また、白水小の『伊勢湾台風誌』は、大部分が学校日誌や教職員の手記から構成されており、児童の作文は12点しか収録されていない。これに対してこの50綴1719点の生原稿は、その全てが白水学区の教師・児童が体験した事柄であり、ひとりひとりの体験を伝える貴重な資料であるだけでなく、それらが連なって白水学区の「まち」の記憶を留めているのである。この意味で、この「台風記」は伊勢湾台風資料のうち最も稀有なものと言ってよいだろう。

館蔵(593-97) 50綴 昭和34~35年(1959~1960)
※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。

伊勢湾台風被災図

子どもの描いた絵

伊勢湾台風被災図 館蔵(名古屋市立白水小学校寄贈)

 名古屋市白水小学校からは、上記の「台風記」と同時にこの記録画も寄贈された。伊勢湾台風当時6年2組の担任であった美術教師が、自分のクラスの児童たちに描かせたものである。

 画面左手には、貯木場から濁流に乗って押し寄せてくる巨大な木材の山と、その中に飲み込まれた家財道具や助けを求める人々が描かれている。中にはひっくり返って流される自動車もあり、濁流の破壊力を物語っている。

子どもの描いた絵

濁流に呑まれ助けを求める人々

子どもの描いた絵

ひっくり返って流されていく自動車

 これに対して画面右手には、濁流に囲まれた家々の様子が描かれている。屋内に濁流が流れ込み、戸板や家具が浮かんでいる様子、天井を破って屋根へ上がろうとする人や、すでに屋根に上がって助けを求める人などが描かれている。その一方で、まだ浸水していない家で、階段を2階へ上がろうとする姉妹の姿もある。

子どもの描いた絵

階段を上がって二階へ避難しようとする姉妹

子どもの描いた絵

天井を破って屋根に上がる人々

 この記録画は、小学生が描いたということもあり、濁流に囲まれながらもまだ浸水していない家が描かれているなど、全体としての構図は整合性が取れていない。しかしそれは同時に、様々な場所・時系列の出来事が一画面の中に凝縮されているということでもある。子どもたちが思い思いに描いたことによって、非常に内容の濃密な記録画として完成しているのである。

館蔵(593-98) 昭和34年(1959) 118.6㎝×163.5㎝

※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。

ドラム缶

円筒形の白い容器の写真

ドラム缶 昭和後期 館蔵

伊勢湾台風では多くの河川・海岸で破堤・越水が発生し、広大な地域が浸水した。
名古屋市内で最も長く浸水していたのは港区の南陽町で、堤防の締切工事が海上輸送によらなくてはならなかったこともあり、ここでは11月16日まで浸水が続いた。

南陽町にある名古屋市立南陽小学校が再開されたのは、台風から2ヶ月近く経った11月21日のことだった。この南陽小学校に宛てて、神奈川県の川崎市立古川小学校児童会から支援物資が贈られている。そして、その支援物資が入っていた空き容器のひとつが、現在名古屋市博物館に寄贈されている。

空き容器は、ファイバードラムと呼ばれる紙製のドラム缶である。
側面には、
名古屋市南区(正しくは港区)南陽小学校殿
川崎市古川小学校児童会
No.8
衣類
と大きく墨書されている。

また、英語の印字もあり、その中に
SPRAY PROCESS NONFAT DRYMILK SOLIDS
DAIRYMEN,S CO-OP CREAMERY
CALDWELL, IDAHO
という文字列が見受けられるため、もともとは米国アイダホ州コールドウェルの酪農家組合の工場で製造された脱脂粉乳の容器だったことがわかる。他にも「MFCD. JULY 54 K」とあり、製造日(Manufactured Day)が1954年7月であることがわかる(Kは20進法で19を示す)。

1954年当時、日本の学校ではユニセフから支援を受け、給食で脱脂粉乳を提供していた。このドラム缶は、食糧難の戦後日本で子どもたちが健やかに成長できるようにとはるばる海を渡ってきたものであった。そして、その役目を終えたのち、次は伊勢湾台風に被災した子どもたちの助けになればと南陽小学校に贈られたのである。支援から支援へとリレーされたバトンのような運命をたどってきたことになる。

ところが、このドラム缶が実際に届けられたのは現在の日進市内にあるとある町内だった。長引く浸水で南陽小学校が再開しなかったため、支援物資も他の地域に回されたらしい。日進市のような内陸部の地域でも、暴風による被害の大きい地域があったのである。また、寄贈者によると、中には衣類が入っていて、町内の人たちで分けたという。

このドラム缶は、南陽町の長引いた浸水と、内陸部の暴風による被害、そして遠く県外からも寄せられた温かい支援を示す貴重な資料といえるだろう。

(鈴木雅)

館蔵(693-117) 昭和後期 直径52㎝ 高さ79㎝
※本資料は常設展示しておりません。あしからずご了承ください。

参考文献

名古屋市立白水小学校伊勢湾台風誌編集委員編『伊勢湾台風誌』名古屋市立白水小学校、1960年。 横井幸雄・原昌一・池田順昭・小山太郎編『あらしの中の子ら―伊勢湾台風被災児童の記録―

中部日本新聞社、1960年。

名古屋市立学校災害対策本部編『伊勢湾台風 こどもと教師の記録』同、1960年。

瀬川貴文「博物館資料の公開と役割―「伊勢湾台風五五年 白水小学校の記録から」の実施」『名古屋市博物館研究紀要』第38巻、2015年。

瀬川貴文・鈴木雅「伊勢湾台風資料の収集」名古屋市博物館編『企画展 博物館イキ!』同、2018年。