戦国武将の文書
名古屋市博物館常設展のテーマは「尾張の歴史」である。なかでも、来館者の戦国時代への関心は非常に高く、人気のコーナーになっている。
織田信長は、天文3年(1534)に尾張国勝幡城(しょばたじょう 稲沢市・愛西市)に生まれた。尾張を統一した信長は、美濃を勢力下に治め、京都に上って全国統一を進めていくのだが、天正10年(1582)6月、本能寺において、明智光秀の襲撃を受けて自刃する。
信長を継いで全国統一を進めたのは豊臣秀吉である。天文6年(1537)に愛知郡中村(名古屋市中村区)に生まれた秀吉は信長に仕え、信長の死後は彼に代わって全国統一を進めていく。秀吉の政策は、刀狩りによる武士と農民の身分の区別を行い、検地による統一基準に基づく石高制を採用するなど、近世社会へと通じるものであった。
博物館では、常設展で彼らの業績を紹介するとともに資料の収集にも力を入れている。ここでは、博物館所蔵の文書を紹介し、常設展における取り組みを紹介しよう。
太刀と馬を送られたことに対する礼状である。宛名の波多野右衛門大夫については、毛利氏と結んで信長に対抗した丹波八上城(兵庫県多紀郡篠山町)の波多野一族という説があるが、確証はない。
本状にみえる信長の花押の形状は「麟」の文字を崩したもので、永禄12年(1569)から元亀2年(1571)頃のものといわれる。
①織田信長書状
信長は、天正元年(1573)に室町幕府将軍、足利義昭を追放する。旧幕府から、公家、門跡の由緒地を含む膨大な没収地を獲得した信長は、天正3年(1575)に公家、門跡に対してその一部を新地として与える徳政令を出した。この徳政令によって、信長が公家に対する支配を強化する一面がうかがえる。
また、文書に用いられた印は「天下布武」と彫られた信長の有名な印であり、武力による統一の抱負を表したものともいわれている。
②織田信長朱印状
天正15年(1587)5月に九州を平定した秀吉は、攻撃目標を関東へと向け、小田原攻めに取りかかる。
天正18年(1590)3月に出されたこの朱印状には、北条氏の箱根連山の防衛拠点、山中城の攻略が記されている。総大将の羽柴秀次によって半日ほどで落城となり、これによって豊臣軍は箱根峠口を突破し、小田原包囲へと至るのである。
本状は、熊本を居城としていた加藤清正に戦況を伝えたものだ。清正は秀吉と同じ愛知郡中村出身で、秀吉配下の武将である。名古屋出身の二人の武将をつなぐ資料でもある。
③豊臣秀吉書状
伏見城の普請に関する秀吉の朱印状である。宛名が滝川忠征、石尾与兵衛尉治一、竹中貞右衛門であることから、彼らが普請奉行を命じられた文禄3年(1594)6月のものと考えられる。
伏見城は、京都聚楽第(じゅらくだい)を秀次に譲った後の秀吉の居城で、朝鮮出兵に加わらない東国大名を動員して行われた。
工事に動員された者がなまけていることを聞いた秀吉が、名前を報告するよう命じたもので、築城工事で疲弊する大名たちの苦労がうかがわれる資料といえよう。
④豊臣秀吉朱印状
文書ではないが、秀吉関連資料として世界一の金貨があるのをご存じだろうか。天正大判は、天正16年(1588)から20年まで、秀吉によって鋳造されたものが初めである。館蔵の大判は豊臣秀頼が慶長13年(1608)から17年にかけて、京都方広寺の大仏再興にあたり鋳造したもので、主に贈答用として用いられた。大きさは縦15.8㎝、横9.85㎝、重さは約165gで、70%から74%の高い金含有率を誇る。
常設展では、天正大判と同じ大きさ、重さのレプリカを持つ体験ができる。博物館で、世界最大の金貨を手に体感してはいかがだろうか。
(武藤真)
天正大判
※本資料のうち、「天正大判」を常設展テーマ7「尾張の統一と信長・秀吉」に展示しております。