特別展 アンコール・ワットへのみち インドシナに咲く神々の楽園

コラム

アンコール王朝とアンコール遺跡群

本展関係遺跡の位置
本展関係遺跡の位置

アンコール王朝の時代は、カンボジア内陸部のアンコール周辺に都城が置かれて政治・文化の中心として栄え、802年~1432年の約600年間続きました。 そのアンコール王朝こそがカンボジアの歴史そのものと言っても過言ではないくらい、歴史的な重要性をもっています。
しかしながらカンボジアには、それよりも遥かに古い時代に遡る歴史があります。その始まりから、アンコール王朝の歴史をたどりましょう。

王国乱立の時代

アンコール王朝が現れるよりも前のカンボジアは、いくつもの王国が乱立する時代でした。 名前のわかっている国としては、沿海部からメコン川下流域と考えられる「扶南」や、北方内陸部と考えられる「真臘」の存在が知られています。 扶南国は1世紀頃からカンボジアで勢力をもっていたようですが、7世紀前半にそれまで扶南国に従属していた真臘国によって滅ぼされてしまいます。 他にも、8世紀までの扶南・真臘時代に関しては、サンボール・プレイクック遺跡群など優れた遺跡群が各地に残されており、それらの遺跡からは地方ごとに異なる特色をもつ神像彫刻が発見されています。

  • 扶南国の寺院遺跡プノン・ダ
    扶南国の寺院遺跡プノン・ダ
  • プノン・ダ様式の神像(ヴィシュヌ・6~7世紀)
    プノン・ダ様式の神像
    (ヴィシュヌ・6~7世紀)
  • サンボール・プレイクック様式の神像(パールヴァティー・7世紀前半)
    サンボール・プレイクック様式の神像
    (パールヴァティー・7世紀前半)

アンコール王朝時代の始まり

7世紀中頃に一旦は真臘国がジャヤヴァルマン1世王のもとでカンボジア全域を支配しましたが、この王の死後は分裂してジャワ王国の支配下に入っていました。 しかし802年、ジャヤヴァルマン2世王がジャワへの帰属から離れて、アンコール北東にあるプノン・クレーンの山頂で即位し、アンコール王朝を創始しました。 その後、インドラヴァルマン1世王がロリュオスに新たな王都ハリハラーラヤを建設し、勢力を拡張しました。

  • クレーン様式の神像(ヴィシュヌ・9世紀前半)
    クレーン様式の神像
    (ヴィシュヌ・9世紀前半)
  • プレア・コー(9世紀後半)
    プレア・コー(9世紀後半)
  • プレア・コー様式の神像(ヴィシュヌ・9世紀後半)
    プレア・コー様式の神像
    (ヴィシュヌ・9世紀後半)
  • バコン(9世紀後半)
    バコン(9世紀後半)
アンコール遺跡群の拡大位置図
アンコール遺跡群の拡大位置図

アンコール王朝の繁栄

アンコール王朝は、ベトナム南部のチャンパ王国やタイなど周囲の勢力との攻防を繰り返しつつ、インドシナ半島に強大な勢力を築いていきます。 また、王朝内部で幾度も王位争奪を繰り広げながら、王が代わるたびに都と護国寺院の建設、大規模な治水・灌漑用の貯水池「バライ」を次々に築造しました。 さらに主要な街道の宿駅や医療施設なども整えられ、インフラの整備が進んだことで社会の統治が安定し、流通や交易も活発化して、アンコール王朝は大いに繁栄しました。 それが、建築や彫刻に代表される壮麗なクメール文化が花開く背景となりました。
なかでも、12世紀初めに即位したスーリヤヴァルマン2世王は周囲の諸王国とも激しく交戦して領土を大きく拡張し、アンコールに新都を建設して、その中心に護国寺院として30年間以上の歳月をかけてアンコール・ワットを建設しました。
またジャヤヴァルマン7世王の治世には、マレー半島やミャンマーにまでも領土を拡大し、まさしくアンコール王朝は繁栄の頂点を極めました。 ジャヤヴァルマン7世王は仏教に帰依し、とくに観音菩薩を篤く信仰しました。そのため仏教中心の統治思想をとり、彼が造営した新都アンコール・トムやその中央寺院バイヨンなどには観音菩薩の顔を多数造形しました。

  • バンテアイ・スレイ様式の神像(プラジュナーパーラミター・10世紀後半)
    バンテアイ・スレイ様式の神像
    (プラジュナーパーラミター・10世紀後半)
  • アンコール・ワット(12世紀)
    アンコール・ワット(12世紀)
  • アンコール・ワット様式の神像(ヴィシュヌ・12世紀)
    アンコール・ワット様式の神像
    (ヴィシュヌ・12世紀)
  • アンコール・トム南大門(12世紀末~13世紀初頭)
    アンコール・トム南大門(12世紀末~13世紀初頭)

アンコール王朝の衰亡

ジャヤヴァルマン7世王の死後、アンコール王朝の安寧は続いていたものの、領土は次第に縮小していきました。 周囲の諸王国が勢力を伸ばし、アンコール王朝はそれらの勢力との攻防に追われるようになりました。 この頃王位にあったジャヤヴァルマン8世王(在位1243~1295年)は、ヒンドゥーのシヴァ神を熱心に信奉したため、バイヨンその他の寺院をヒンドゥー寺院に改造しようと、激しい廃仏をおこなったとされます。
14世紀になると、タイのアユタヤ王朝の度重なる侵攻にさらされ、アンコールは荒廃が進んでいきます。 15世紀初めには当時の王が戦死する事態にいたり、1431年、支配者層はついにアンコールの地を放棄して、約600年間、26代にわたり王を戴いたアンコール王朝は滅亡しました。

このように激動の歴史の中で栄華を極めたアンコール王朝は、次第に疲弊し衰亡の道をたどりましたが、そこで生み出されたクメール文化は、現代の世界中の人々を驚かせ、魅了し続けます。 また、アンコール王朝とクメール文化の歴史に関しては、ごく限られた文字資料と、現在進められている途上の考古学調査だけが手がかりであり、その謎がまたわれわれの好奇心とロマンを掻き立てるのです。

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