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資料の収集と保管・保存
名古屋市博物館では、考古・美術工芸・文書典籍・民俗の各分野にわたる、全国的な優品や、尾張地方に関連する資料を、受贈・購入・受託等の方法によって収集しています。
館蔵資料は平成21年(2009)3月末日現在で22万点を超え、国指定重要文化財として「秋草鶉図屏風」「魚波文瓶子」「三宝絵」「太刀 銘『国泰』」「太刀 銘『行平作』」「太刀 銘『雲生』」があります。
受託資料では、国宝の「古事記」、国指定重要文化財の「過去現在絵因果経」「七寺一切経・唐櫃」「騎馬武者像」「無住道暁筆文書」「四季山水図屏風」「樵隠悟逸墨蹟」「寸松庵色紙」「袈裟襷文銅鐸」があり、このほかに国認定重要美術品、愛知県指定文化財、名古屋市指定文化財も多くあります。
これら博物館資料は、保管に適した温度20℃、湿度60%に保たれた6つの収蔵庫において、厳重に保管されています。
名古屋市博物館収集品の資料紹介
日本最古の船形木棺
常設展テーマ2「稲作のはじまった頃」に新展示。7月17日(土)オープン!
平成20年度におこなわれた名古屋市北区平手町遺跡第6次調査で発見された
弥生時代中期にさかのぼる日本最古の船形木棺を、
当館2階常設展に新たなコーナーを設けて展示します。
平成20年度におこなわれた名古屋市北区平手町遺跡第6次調査で発見された
弥生時代中期にさかのぼる日本最古の船形木棺を、
当館2階常設展に新たなコーナーを設けて展示します。

手前が方形周溝墓D。中央に船形木棺が見える。(見晴台考古資料館提供)
平手町遺跡は、庄内川と矢田川によって形成された、標高約5mほどの沖積地に立地しています。南西には弥生時代を通じてこの地域の拠点的集落であった西志賀遺跡が、東には古墳時代を中心とする志賀公園遺跡があり、平手町遺跡を含めた3遺跡は、弥生時代から古墳時代を中心とした一連の大遺跡ととらえることができます。
今回の平手町遺跡の発掘調査は「クオリティライフ21城北」の建設に先立っておこなわれたもので、調査区の南側で10基の方形周溝墓が確認されました。いずれも墳丘が残るほどのよい状態で見つかっています。そのうちの1基から、ほぼ完全なかたちの船形木棺が発見されました。
木棺は長さ2.8m、幅80cmの大きさで、片方の端を削って船形につくられ、底は緩いカーブを描いています。近くから出土した土器から、およそ2000年前の弥生時代中期のものと考えられ、これまでに発見されている船形木棺のうち、もっとも古い時期のものであることがわかりました。
また、これまでに出土している船形木棺のほとんどは、木の部分は腐ってしまっていて、残された痕跡から判断されたものだったのですが、今回のものは、木棺自体が残っていて、この点からも貴重な資料ということができます。
この船形木棺が設置された方形周溝墓Dの墳丘は、北西-南東を主軸とするおよそ11m×7.5mの長方形プランで、高さはおよそ80cmありました。木棺は墓の主軸と同じ方向に置かれ、舳先が北西を向くように配置されていました。木棺を納めるための墓坑はなく、墳丘を造成する途中で盛り土の上に棺を据え、そのまま墳丘を完成させたとされています。
木棺の底には埋葬された遺体の一部も見つかっていて、頭を南東(船尾側)に、足を舳先側に向けて安置されていたことがわかりました。
遺体を船あるいは船のかたちをした棺に納めて葬る方法を船葬(あるいは舟葬)といいます。どこにあるかはわからないけれども、霊魂が現世とは違う世界(来世)へたどり着くための乗り物として、舟が考えられたと言われます。古墳時代に舟が来世への乗り物という観念があった、ということはよく指摘されています。平手町遺跡の船形木棺は、こうした観念が弥生時代中期までさかのぼる可能性のあることを示すものです。
この船形木棺は、発掘調査が終了した後、周りの土壌とともに取り上げられ、保存処理がほどこされました。7月17日(土)に、2階常設展示室で公開します。(T.K.)
*展示ケースおよび木棺の設置のため、7月8日(木)から16日(金)まで、2階常設展テーマ2「稲作のはじまった頃」を閉鎖いたします。ご了承ください。
平成22年7月12日、船形木棺が博物館2階常設展示室へ搬入されました。7月17日(土)より公開いたします。
今回の平手町遺跡の発掘調査は「クオリティライフ21城北」の建設に先立っておこなわれたもので、調査区の南側で10基の方形周溝墓が確認されました。いずれも墳丘が残るほどのよい状態で見つかっています。そのうちの1基から、ほぼ完全なかたちの船形木棺が発見されました。
木棺は長さ2.8m、幅80cmの大きさで、片方の端を削って船形につくられ、底は緩いカーブを描いています。近くから出土した土器から、およそ2000年前の弥生時代中期のものと考えられ、これまでに発見されている船形木棺のうち、もっとも古い時期のものであることがわかりました。
また、これまでに出土している船形木棺のほとんどは、木の部分は腐ってしまっていて、残された痕跡から判断されたものだったのですが、今回のものは、木棺自体が残っていて、この点からも貴重な資料ということができます。
この船形木棺が設置された方形周溝墓Dの墳丘は、北西-南東を主軸とするおよそ11m×7.5mの長方形プランで、高さはおよそ80cmありました。木棺は墓の主軸と同じ方向に置かれ、舳先が北西を向くように配置されていました。木棺を納めるための墓坑はなく、墳丘を造成する途中で盛り土の上に棺を据え、そのまま墳丘を完成させたとされています。
木棺の底には埋葬された遺体の一部も見つかっていて、頭を南東(船尾側)に、足を舳先側に向けて安置されていたことがわかりました。
遺体を船あるいは船のかたちをした棺に納めて葬る方法を船葬(あるいは舟葬)といいます。どこにあるかはわからないけれども、霊魂が現世とは違う世界(来世)へたどり着くための乗り物として、舟が考えられたと言われます。古墳時代に舟が来世への乗り物という観念があった、ということはよく指摘されています。平手町遺跡の船形木棺は、こうした観念が弥生時代中期までさかのぼる可能性のあることを示すものです。
この船形木棺は、発掘調査が終了した後、周りの土壌とともに取り上げられ、保存処理がほどこされました。7月17日(土)に、2階常設展示室で公開します。(T.K.)
*展示ケースおよび木棺の設置のため、7月8日(木)から16日(金)まで、2階常設展テーマ2「稲作のはじまった頃」を閉鎖いたします。ご了承ください。
平成22年7月12日、船形木棺が博物館2階常設展示室へ搬入されました。7月17日(土)より公開いたします。

これまでに紹介した資料については以下をご覧下さい。
▼画文帯仏獣鏡(博物館だより191号より)
▼月に雁染分秋草文様着物(博物館だより190号より)
▼吉田初三郎原画の絵葉書・記念切符(博物館だより188号より)
このページのトップへ戻る▼画文帯仏獣鏡(博物館だより191号より)
▼月に雁染分秋草文様着物(博物館だより190号より)
▼吉田初三郎原画の絵葉書・記念切符(博物館だより188号より)