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フリールーム
江戸から明治 名古屋の上下水道
平成23年11月15日(火)~12月18日(日)
名古屋では、城下町が生まれて以降、くらしを支える水を確保する取り組みが様々な形で行われてきました。江戸時代、名古屋城下ではおもに井戸を掘って生活用水を得ていましたが、堀川より西の地域では、地質の関係で飲料に適した水が得られませんでした。このため、生活用水を庄内川から取水して城下西部へ配水する「御用水」と「幅下水道」が敷設されました。
一方江戸時代の下水は、家々から城下に設けられた「悪水路」と呼ばれる溝を通じ、堀川や精進川などに廃水されていました。ちなみに江戸時代、城下の下水に屎尿は含まれていません。屎尿は農作物の肥料となるため、城下近辺の百姓が町ごとに契約して定期的に買い取っていたのです。
明治に入ると、コレラやチフスなどの伝染病が流行し、都市の劣悪な衛生環境が大きな問題になりました。名古屋市でも、明治35年(1902)には市内の井戸水が飲料に適さないとする報告書が提出されるなど、良質な飲料水の確保が課題となりました。こうした中で、明治42年(1909)に木曽川中流域を水源とする上水道の布設工事が始まり、大正3年(1914)には供用が開始されました。
一方で、下水についても、都市の拡大や人口の増加によって江戸時代以来の悪水路が限界に達し、その改善が大きな課題となりました。こうしたなかで、明治41年(1908)には埋設管による下水道の布設工事が始まり、大正元年(1912)には一部の供用が開始されました。また、昭和5年(1930)には汚水を浄化する堀留下水処理場が設置され、屎尿も下水道に流されるようになりました。
平成24年は名古屋の近代下水道供用開始から100年にあたります。この機会に、江戸時代から明治時代にかけ、「水」を通したライフラインの移りかわりを紹介します。
おもな出品資料
・上水道木樋(出土状況) 中区樋の口町出土 名古屋市見晴台考古資料館蔵
名古屋では、城下町が生まれて以降、くらしを支える水を確保する取り組みが様々な形で行われてきました。江戸時代、名古屋城下ではおもに井戸を掘って生活用水を得ていましたが、堀川より西の地域では、地質の関係で飲料に適した水が得られませんでした。このため、生活用水を庄内川から取水して城下西部へ配水する「御用水」と「幅下水道」が敷設されました。
一方江戸時代の下水は、家々から城下に設けられた「悪水路」と呼ばれる溝を通じ、堀川や精進川などに廃水されていました。ちなみに江戸時代、城下の下水に屎尿は含まれていません。屎尿は農作物の肥料となるため、城下近辺の百姓が町ごとに契約して定期的に買い取っていたのです。
明治に入ると、コレラやチフスなどの伝染病が流行し、都市の劣悪な衛生環境が大きな問題になりました。名古屋市でも、明治35年(1902)には市内の井戸水が飲料に適さないとする報告書が提出されるなど、良質な飲料水の確保が課題となりました。こうした中で、明治42年(1909)に木曽川中流域を水源とする上水道の布設工事が始まり、大正3年(1914)には供用が開始されました。
一方で、下水についても、都市の拡大や人口の増加によって江戸時代以来の悪水路が限界に達し、その改善が大きな課題となりました。こうしたなかで、明治41年(1908)には埋設管による下水道の布設工事が始まり、大正元年(1912)には一部の供用が開始されました。また、昭和5年(1930)には汚水を浄化する堀留下水処理場が設置され、屎尿も下水道に流されるようになりました。
平成24年は名古屋の近代下水道供用開始から100年にあたります。この機会に、江戸時代から明治時代にかけ、「水」を通したライフラインの移りかわりを紹介します。
おもな出品資料
・上水道木樋(出土状況) 中区樋の口町出土 名古屋市見晴台考古資料館蔵
地下に埋設されていた幅下水道の一部です。2010年に名古屋城西隣のホテルウェスティンナゴヤキャッスル前の道路から出土しました。
・御深井御用水江程全図 文久元年(1861)11月 館蔵
・水道運河雑録 明治 鶴舞中央図書館蔵
・精進川改修工事実測図 明治 鶴舞中央図書館蔵
・下水道布設関係資料 明治 名古屋市上下水道局蔵
・肥桶 昭和 館蔵